不甲斐無いほどに、完全に守りに入らざる終えない数週間を過ごす。
攻守交替のタイミング待ちと言えば聞こえはいいが、明らかに自身の中の怠慢である。
10年前に某師より説法された経済学の極意の一つ、まさしく10年目にさしかかろうとしている。
際限なくアンバランスな、グループ内の攻守交替に、日々悶々と対峙する。
すべては受けるべくして与えられたワンウェイチケット。心して楽しもう・・・。
不甲斐無いほどに、完全に守りに入らざる終えない数週間を過ごす。
攻守交替のタイミング待ちと言えば聞こえはいいが、明らかに自身の中の怠慢である。
10年前に某師より説法された経済学の極意の一つ、まさしく10年目にさしかかろうとしている。
際限なくアンバランスな、グループ内の攻守交替に、日々悶々と対峙する。
すべては受けるべくして与えられたワンウェイチケット。心して楽しもう・・・。
スロースタートの決算月は、本当に穏やか過ぎるほど静かな始まりである。
傍らでは、生後3週弱の乳飲み子の犬たちが、偽善的平和を演出してくれている・・・と感じるほど荒んだ精神状態である。
費やした年齢のせいにするのが最近の傾向ではあるが、グループ全体としての費やした時間は非常に濃さを増し、乖離したその自身との温度差が、自分自身が無駄に消費するこの数ヶ月は特に加速度的な成長を見せてくれる。
恐らく、大きな事業の転換期なのか、はたまた、耐え忍ぶ精神状態を研鑽するべく準備期間なのか、もしくは、本当に止んでいるのか・・・・見極めにはプライベートな部分も含む相対的な論評が必要だと思われる。
ステレオタイプの人間にはなりたくない・・・。
そう信じて願うほど、その恐ろしさを意識してまた、自身がその保守性に傾倒してしまっている気がする。
経済至上主義的世界に身を投じてからの10年目・・・、もうしばらくお待ち下さい。
意識させられる弊社の期末とは、撲殺されかれない程の閑散とした時間と同居を強いられる、非常に意味を見いだしにくい時を過ごす事によく似ている。
そんな中でも、結果として、踏みだした新たなる挑戦的行動が、今はどの様な結論を得る事になるのか、傍観者的であれる様に努力したい。
そんな、猛暑の某日。
さて、どこからこの続きを書き始めよう・・・
時間と年月はまるで、「走馬灯」に描写された絵のようにあっけらかんと無造作に巡りめくる・・・。
人並みに恋をして、仲間たちと奔放を旅して回り、部下たちとはお互いの主義主張でぶつかり合う・・・・。
経済は暗転し、年齢を重ね、そして・・・父親という勿忘草を失い・・・確実にそれ相応の時間を費やしていると思う。
初めてであった人や振向きざまに惜別の意を持って静かに握り締めあうお互いの気持ちだったり・・・、何もかもが以前よりも濃密である気がする。
さて、今から不定期に
昨日の終日「外出中」の時間から反転し、終日のスケジュールをインドアで調整する。
まぁ・・・粗方予想可能なことではあるが、「無能」なほどのオーバーライドの来客応対に終始する始末である。
こうなってくると、何か天分の才能ではないのだろうかと勘違いするほどの予見不可能な繁盛振りである・・・。よりによってスタッフの休日に・・・・。
すべて「生かされている」事を体感するのには十分なほど瞬間瞬間ではあるのだが・・・。
濃い一日は引き続く・・・・。
出社直後の来店や電話の慌しさを脱し、足早に市街地へとアクセルを踏み込む。
現場での打ち合わせが連続する日々は、数年前の・・・・グループ事業の波状化に精一杯だった当事の時間をトレースする・・・「同じ」時間が、摺りこまれた記憶の断片と同化する・・・。
違いと言えば、着実に3年の月日が過ぎ去り3年間の年齢を積み重ねていること・・・あとは・・・後は思い出してもそう大差の無い、繰り返す自身の中の「信義の法則」のみである。
人が其々持ち合わせ、癖として身に着けていくものとして「信義」は構成要件の大きな要素だと思う。しかし、言葉とは裏腹にそれは常に変化し続け、その時々の心理の変化や成長のプロセスに則し、大らかな変化を遂げていく・・・。しかし、ひとは信じ続ける「信義は一つ」だと・・・。
決して、悪意を持った悲観的発言ではなくむしろ、それらは正常な人としての生業の一種であり、それが故に人として、時には人格者として大成するのではないのだろうか。
生きとし生けるものの宿命の縮図・・・・。人生とは如何に在るべきか・・・。
所謂、商売の谷である如月の月初ではあるが、恣意的な行動ではないもののなんだか全力を求められる予感である・・・。
関連会社の新店改装工事は、未だに創造の具現化には達せず、かかわる其々の内面で実現可能な想像不可能の新たな形態を未だ模索の途中である。
最近の日課に組み込まれつつある、繁華街への出没も、そんな「何か」を求めての無意識での行動なのだと自身の中では消化させようと努力し続けている。。
何時でもそうなのだが・・・何か新たなものを創造する過程で、まず「結論」あり気の傾向が自身の癖としてある。その理由は、思考の幼稚さが主たる原因なのは述べるまでも無いのだが、議論の行く末に見出される「新たなる創造」には、決してそれ以前のプライオリティーの高い現象の「破壊活動」は存在しないような疑心にいつも苛まれるからである。
色々なリスクと、その先に発生する予見可能なメリットデメリットと言う乗数を掛け合わせ、見出される数字の羅列を無理やり未来志向な健全な精神に論拠付けしてみても、一般の凡そ過半数は「ことの事象」に二の足を踏まざる終えないのではないのだろうか。
当然、本質的な思考の傾向に依存する個々の判断が大前提ではあるが・・・。
当然、自身の思考は間違いなく一般論的には不正解である。
生み出される物事も雑多であり・・・・つまり「ガサツ」である。
しかし唯一のメリットは、生み出される物事もそのプロセスも想像以上のものであり、携わる者たちの成長もまた然りである。
自己否定の先の焦燥感に恐れをなして、なかなか反省することの無い自身の歩みではあるものの、これからもやはり「自分の向こう側」を研鑽できることを夢見て生きながらえることなのだろうと・・・。
生きとし生ける限られた時間を全力であるために・・・