雑然と積み上げられた仕事の書類と同化する様に積み上げられ散乱したDVDは、過日友人が何気なく置いていったものである。
何か・・・、どういうものなのかの内容についての彼の説明の言葉は、日常の煩雑さと自身が抱える諸事という名の苦悩の前では、その時まったく持って無意味であったのだろう・・・。気にすら留めていなかった。
それからの数日、自身の中に潜む現在の立場が善だと仮定すれば・・・、まさしくそれは悪・・つまり陰そのものであった。
「害はあっても一利なし」といったものである。
自身の中の苦悩とは何か。嫌、苦悩とも少し違う気がする。
天から与えられし試練?繰り返してきた罪へ対し懺悔を求める日常?
いずれにせよ今の自身にとっては、まだ手を伸ばしてはいけない「もの」であることは、火を見るより明らかである。
物語は、日本で暮らす若者達の他愛も無い雑談のシーンから始まる。描写はその当時の時代背景なのだろう・・・、すべての欲が手を伸ばせば手に入るのではないか・・・そんな漫然とした時代感を感じ取ることができる。
そんな中の一人「沢木」は、何気にした友人達との「賭け」が、彼をこの後のパラレルワールドの入り口への扉を開けさせることになる。
バックパッカー・・・バックパックひとつで世界中を旅する旅人の俗称である。
彼の友人達との「賭け」の対象とは、香港からロンドンまでのユーラシア大陸をを陸路ゴールするという非常にシンプルなものである。
結論から言えば、1年数ヶ月の旅で彼は見事ロンドンの地を踏むことになるのだが、彼はその当時友人達と約束した賭けには勝つことはできなかった。
勝つことはできなかった?
彼が友人達と約束した賭けの成否は、彼がロンドンより打つ電報だったのだが・・・・。
彼はロンドンの地で、あえてこの旅をゴールするという目的を拒絶した。彼が旅先で出会った・・・人や価値観や夕日や山や・・・色々な出来事の多くが、彼自身の日本での生き方、そしてゴールの後の彼の身の置き場所・・・もっと言えばこの旅自体を終わらせることへの無意味さ・・・つまり、ゴールを必要としなくなったのではないだろうか。もしくは、ゴールなどという設定そのものの定義が、彼のこの旅そのものの理由ではなくなったのではないだろうか。
自身もその当時の彼より少し若い25歳のころ、バックパックとカメラバックに自身若気を詰め込み、北米をグレイハウンドで「旅」をした事がある。僅か半月程度だった記憶だが、正直、ありつける飯といえば某有名ハンバーガーショップの連続が続いたり、風呂も入れず、ほとんど定位置でゆっくりすることができないためのフラストレーションだったり、仮眠なのか熟睡なのかの区別がつかないほどの異常な疲労だったり・・・、もっといえば、その当時旅を記録することすらどうでもよくなるほど本当にどうでもいい数日を過ごした薄らぼんやりした記憶だけが現実の旅のほとんどであった。
結論としては、この旅そのものは「無」であった気がする。
それではなぜこれが今の自身にとって悪といえるほど「お預け」に匹敵する存在なのか。
答は明瞭に、「旅」というものをほとんどの旅人が各々の人生へとトレースしてしまうからではないのだろうか。
旅が終わることへの疑心や、本当にこのたびを終わらせることが正しいのか・・、旅の間に出会った人すれ違った人、目前に飛び込んでくる夕日をいつまでも追いかけ続ける只管にまっすぐな道路と旅人のまっすぐで純な魂・・・、旅の間にめぐり合うわずかな瞬間的なこれらの出来事が、旅の苦労そのものを無毒化し与えてくれる。
まさに、今の自身にとっての安息日になることは想像に難しくないのである。
だから「旅」に出たくなる。
旅を色々な物事に例え出したら限が無く、そんな無意味なことをするよりも必要最低限のものだけをバックにつめ、取り敢えず旅に出るためのチケットを手に入れる。
「旅人」それは麻薬に似た魅惑の響きそのものである。
師走の中日・・・、何者かに埋没させられそうな弱りきった心へと悪魔がささやく・・・「だから旅に出よう」と。