ずいぶんと調子の上がってきた、夏空の予感もここに来て鼻先をへし折られた感である。
最近は40歳になったせいなのか、夜毎に宴席に顔を出すことが多くなり、酒量の摂取量が急激に増加しつつ、併せて激減させていた紫煙を燻らせる癖も回数を増さざる終えない状況になっている。
他方、トータルワークアウトはルーチンワークと化し、週2~3回程度体重の増量のために時間を振り分けている。
今までの自分自身の中の「全力」という概念が、「死して屍拾うものなし」という名台詞を地で行く生き方が・・・・、かなり変化球で投げ散らかすような・・・加齢に伴う自己防衛本能的行動が、かなり鼻に突く感じである。
まどろっこしい言い方をせずストレートに表現すれば、「死」という存在が、大変リアルに感じれるということだ。
どのように死ぬべきなのか・・・・
それはいつ訪れても、これからは不思議ではないのだろうか・・・・
おおよそどの程度の時間の猶予を与えられているのだろうか・・・・
前向きにも後ろ向きにも、以前より確実にいわゆる寿命による死生観を認識する自身にきづく。
枯渇資源としての残存時間を認識した者にできることは、ストレートすぎると時間がかかりすぎる・・・そういう結論なのだろうか。
だからこそ、かなり自身を歪曲し誇大表現し虚勢を張りたがるのかもしれない。
できる限り純粋に、今目前にいる君のことを愛することや・・・与えられる「運」を避けずに受け止める勇気や・・・それでもなお、今まで以上に苦しむべき瞬間や・・・純粋に喧嘩をできるということや・・・
青年期よりも確実に難解化した壮年期・・・そして今。
色々な「大人の知恵」という汚れ荒んだ大義名分を振りかざし、生きて行くしか方法はないのだろうか・・・。
あきらめかけてもなおあきらめきれない「幼心」の自身への渇望とどのくらいかの目前に迫った寿命とのバランスへの葛藤は続く・・・。