もはや時流の流れには逆らえないのだろうか・・・・
40近くまで頑なに・・・いや、意固地に守られ続けてきた自身の中のちっぽけなルール。
電子装置を使った伝聞方法・・・「メール」を使わないこと・・・がそれである。
諸説・・・、自身の中でもそこに至った理由は、其れなりにあったのである。そのもっとも最たるものが、温かさや寂しさ、涙に始まる哀しみや苦しみ・・当然喜びという・・・感じた瞬間を即座に伝聞できるという・・・、つまり、スピードに意味があるのだろうかということである。
即応性を追及したがゆえに失われ、そして得ることのできないもの・・・・それこそがまさに「時間」なのではないだろうか。
フィルカメラに要する時間とディジタルカメラに不要な時間・・・。
・・・躊躇いながらも意を決しポストへ投函した、青春の揺らめく想いが蘇る。「しまった」と我に返り、決して取り戻すことのできない瞬間を懺悔したり、期待したり・・・、手紙をしたためるために費やした時間や、何度となく校正し続けた想い・・・、決して返ってくることのない取り返せない時間という名の時代・・・、書き留めた思いを告げるという役割を果たせずに、読切の雑誌や長文小説のしおりと化し、いつしか時間の狭間へと忘れ去られたその瞬間・・・、
現像し忘れたのか、現像しなかったのか・・・それらはまるで、カメラの奥深くで深々と時を忘れたかのように、切り取ったその瞬間の意図を封殺し、気がつけば記憶の中からさえも奪い去ってしまう。
やがて手紙はその表現のように「色褪せ」・・・そう、色褪せて行くのである。その瞬間と反作用して行くかのように・・・・、
苦しみは優しさに、胸を締め付けるような哀しみは次のための奥深き愛情に、その色褪せた過去の時間を振り返る今の自身次第では在るのだが・・・おおよそは、今のための過去の瞬間として、良くも悪くも色褪せて行っている様に感じる。
昇華されたこれらの想いは、少なくともそれを見るものが優しくそして穏やかに生きて行くために合えて時間を要し・・・、あえて色褪せるために必要な時間なのだろうとも想う。
こんな雨の降りしきるまだまだ梅雨空の文月・・・・久しくペンのキャップを廻し開けてみましょうか・・・。