仮に不幸にも、この現代文明で色々な物事に一喜一憂する選択しか与えられないことに、生きなければならない事の事実と・・・、それらの矛盾を重ね合わせてしまった時、人はどう存在すべきなのだろう。
可能な限り実直に、そして物事に正確に生きようとすればするほど、哀しいくらいの軋轢が想いを襲い、その意義が何であるのかとの問いへ対し又連続し始める問いかけを繰り返す・・・。少なくとも最近の傾向として、哀しいほど現実的にそしてより具体的に最短の方法をもってして、全ての結論を繰り返し続けているのだが・・・。少なくとも自身の中でだけは、常に最善の結論ではあるのだが・・・嫌、あるはずなのだが・・・。
時として、人の希望や期待を抹殺するほどのこの壮絶な次元的抹消方法が、心の奥底では愛しいほどの愛情の断片のはずの言葉の多くが、幾多数多に繰り返してきた経験という名の時の経過と、ある種弾圧的に吐き出される言葉の羅列の連続で、仮に全てが正しいとしても、そんな杓子にはまらない物事の多くが反面、多く存在するこの現代文明では、常に諸刃の刃と化し作用してしまう。
言わない事の不幸と、言われない事の不幸と、又それらの逆の世界と・・・、諸行無常である・・・。
結論はそれでも結局、自虐的なほどの自己嫌悪と、やはり、切ないくらいその人のことを愛しているのだという・・・何か、起きる事象そのものに対する略奪的な・・・そして偏見的な・・・それでもやはり愛情の様な気がする。
繰り返し正当化し、繰り返し慈しみ苦しむと言う、この連続的な出来事が非日常的で且つ特別なことである事を願うこと自体が、徒然なるままに存在する・・・と言う事と遠くかけ離れてしまうのだろうか・・・。