数年来の積年の思いに駆られて・・・というと少し大袈裟に聞こえてしまうと思う・・・。
・・・・・ある時自身の記憶の法則について、それが他人とどれくらい違うのだろうと考えたことがある。
時にはそんなつまらないことを不幸のどん底で受け止める事もあり、時にはまた、どうしようもないほどに澄み切った精神世界の中でそのことを考え立ち止まる瞬間さえもある。
それらのことが不幸なのか幸福なのか、それらのことによって受ける自身への影響は?そんな庶事を気に留めさせられた記憶が蘇る。
しかし自身の中の法則云々については、明瞭にその答えを捜し求めるでもなく、結局のところ解決せぬままが心地よいのだという解決に落ち着く・・・。
何れにせよ、そんな大袈裟な想いでこの地を訪れたのではなく、そう・・・決して大袈裟ではなく・・・・ないもののやはり、それなりの意味を持ってステアリングを帰路と反対に切り込ませられたのだと思う。
結論から言えば、決して其処にも答えがあるわけでもなく・・・其処にもというのはつまり、最近の思考の傾向として、流離い彷徨う自身の精神のよりどころを、追憶の過去の情景に重ねることにより何か漠然と昇華されもしくは塗り重ねられもしくはもっと期待すれば、そのこと自体がとても神々しく美しく美化されることすら期待して費やすこの遠回りな時間なのかもしれない・・・というこれもまた解決に満たない思い・・・。
それで得た実測感はと申し上げると・・・費やした年齢の分だけ利己的なのだなと・・・そのこと事態に既に苦しみの涙さえ忘れ去ってしまっているのだなと、自虐的に感じてしまう。
それで、其処に存在するわずかな光明は?と自問してみると、守るべき対象が自分自身であること以上に、自身を取り巻く人や物そのものにダイレクトに変化したことと、若輩の頃に体現し得なかった、「人のために在れること」と「己が成されること」の相反した意味が、一つの言葉として理解できたことぐらいだろうと思う。
満身創痍の日常にひっそりと潜む、美しく心奪われる情緒が、それを懐かしむ自身の心が、まだなお生かされ使われ続けていることへの理由と出来ることが、この瞬間の本当の幸せなのだと思う。
行間にあるという答え探しの果てに・・・。