- 2010-01-11 (月)
- Column
「惜別」が翻意ではない主人公に魅せられて・・・・。
一番最初に出逢ったのは、恐らく十代がやがてカーテンコールを迎える頃だったと思う。
とある「縁」の「同郷」の友人より、その当時、VHSタイプのビデオテープで借りたのか貰ったのか・・・・何れにせよ、その後は自己所有物との位置づけで、この映画と出逢うことになる。
余談ではあるが、とても明晰だが気取らない?嫌、気取れないこの友人からは、その後の青年期の自身を形成する複数のファクターを、匠の妙にも似た絶妙なタイミングで与えられ、自身の知らないいろいろな世界観をこれ等の「贈り物」を通じて知らされ続けた。
ご存知の書生も多いかとは思うが、今日はこのストーリーを自身なりの受け止め方で綴ってみたい・・・。
「リアリストであるべきか?アイデアリストが正しいのか?」
この映画の構成要件の大儀として、「ファミリー」と「愛」と言う大きな設問が設定されていると受け止めている。これはらは両方とも同様のものであるのだが、このストーリーの中では敢えて行間に其々の言葉の意味へ対する悲哀や貧しさ、そして、決してそれらは同意語では成立しないのだと言う複雑さを表現しようとしているかのように自身では理解している。
・・・・あるシーンでは、絶対の存在であるファミリーへの忠義心イコール愛という行が表現されている。幼少期より家族同然で過ごす遺児同士が、その血の血判を忘れ欲に身を流してしまう・・・。それを知ったゴッドファーザーはその血縁ともいえるファミリーの崇高な絆の浄化を目的に、それらを彼の命で償わせ其れと成す。
・・・・愛する女性とその子供たちを守るために、彼の実弟をも殺させるよう命令する・・・それは決して自身の手を血で染めることなく・・・。
・・・・妻を守るための唯一無二の選択を・・・、彼自身が晒される危険な立場や、彼自身ではどうにもコントロールの利かない報復の連鎖から愛するものを守るために・・・、敢えて、それが愛するものを守るためと自分自身に言い聞かせ続け、そして、自責の念に苛まれながらも・・・・非常に傲慢で偏屈なその方法によって得られた対価や結果は想像出来ないまま・・・・。
結果、最愛の妻に恐れ恨まれ続け、さらには身ごもった新たなる命でさえも、彼女の意思による堕胎と言う選択によって失ってしまう・・・。最愛の人と同様に・・・。苦悩の末のいろいろな偏向した愛情表現の末彼が神から与えられたののすべてが・・・・
すべてが、愛するものたちを守るための贖罪の連続が・・・・
ラストのシーンでは・・・荒涼とした・・・まるで着色のない家の庭先で、寿命としての天寿を全うしきったしわがれた姿の老人が一人。本当に古びた椅子に・・・もう何十年も同じ繰り返しの時をそこで過ごし、垂れ流し続けてきたかのように・・・・無機質さが只管と映し出され続けている・・・・。ありとあらゆる本当に大事な物をすべて失ってしまってからの時間が・・・・。
そして、無声映画にも似たそのシーンの最後・・・・。あれだけの名声と金と・・・手に入れることが可能なものはすべて手に入れてきた、強権の長ゴッドファーザーは、誰にもその死期を知られることも知ってもらうこともなく、そっとその亡骸は荒涼とした地面に椅子から静かに崩れ落ちる・・・。
愛する実弟を手にかけたこと・・・・愛する妻と出会いそして恐れ恨まれたこと・・・・愛する娘を凶弾の元にさらしたこと・・・・すべて愛するものを守るためにと直向なまでに努力して来た結果なのに・・・・。
物語は彼自身の壮絶なまでの「今を生きた」数十年を、とてもあっけなく、とても静かに映し出しながら終わっていく・・・。
・・・・・すべてを失ってしまったと言う事。
・・・・・本当の愛を手に入れることが出来なかったという事。
きっとこのストーリーには、「最善か否か」と言う究極のいろいろな物事の表現と、それらの対極で同時間に進行するすれ違う想いと・・・。
それらの大部分が、自身が求め続ける構成要件と交錯し、重ね合わせることが可能な気がして・・・、
そう「カルマ(業)」と「愛」と・・・・。
主人公同様、その答えは見つからないまま・・・・繰り返し自問し続ける寂寞の時間。
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