- 2005-01-08 (土)
- Column
それは当然、「友人」であったり、「恋人」であったり、「上司と部下」であったり・・・色んな選択と価値観の共有方法で変わるのだろうが、そんな中でも、自身の底流に流れる本質的且つ性質的な「感情」と、まったくそれに依存しない「愛情」との駆け引きが、果てしの無いテーマとして重く圧し掛かる。
それらの大勢は、ものすごく自然に、且つ倫理的に理解しようと言う普遍的な文明社会の中での精神状態において、多少の曲折はありながらも友好な対人関係を維持できる力として作用する。しかしそれが妥協なのか矛盾なのか、自らが導いた結果なのか・・・、そこの理解を深めることはなかなか容易ではない気がする。当然、それらから見出せる結果は、すべて現在のこの時間に有効に作用しているものであるはずなので、過程での後悔、屈辱、哀しみ、悦びは、受け入れがたいが、当然無ければならないもので・・・
お互い、共有していたと感じれていたはずの時間に時差が生じ、其の時差を相殺できないのと同じくらい気持ちの時差も比例して大きくなり、「何でこんなに・・・」と言う経験がこの複雑怪奇な物事の結末である。
自浄能力に身をゆだね、時間が癒す心の傷が癒えると同時に、それでもまた先に進もうとする現代文明の中の自身の精神力に、吾ながら唖然としてしまう。